numerology compatibility with names astrology scorpio august name numerology of libra astrology and here free compatibility numerology test horoscope matching for marriage only by name

チャリの旅(日本一周編)の最近のブログ記事

 「なぜ、自転車で日本一周をしようと思ったのか?」と、よく人から尋ねら れる。だけれども今振り返ると、日本一周は成り行きで自然に決意した旅だっ たと思う。

 私とチャリの旅との出会いは、もう十年以上前になる。その当時、中学生で あった私は、友人5,6人を誘っては、海や川で遊ぶため江ノ島や伊豆に自転車 で旅行に行っていた。横浜の自宅から朝早く出発して、目標の土地まで1日か けて、サイクリングをしていた。日帰りが中心で1日80kmぐらいの距離だった けれども、今でも楽しい思い出として記憶に残っている。

 高校生になっても中学時代の仲間(今も親友として付き合っていて旅行にも でかけている)と房総半島へ。高2の時、今度は1人でもっと遠くに行ってみよ うと、飛騨高山へ単独のチャリの旅をすることになった。

 実は、どうして飛騨高山を目標地点としたのか忘れてしまった。しかし、夏 休みが40日間しかないことと高校生時分の限られた予算では、明らかに日本一 周をすることは無理だった。

 この高山への旅では今までと違い、泊まるところ、食事の用意、ルートの決 定、アクシデントへの対応などを1人でこなさなければいけなかった。
 けれども、1人の旅というものは、その土地土地の地元の人や旅をしている 人と触れ合うチャンスが多いもので、地元の人達にお世話になりながらも、21 日間の高山へのチャリの旅を無事に終えた。

 ちなみに、高山への旅のルートは、自宅(横浜市)→道志(山梨県)→甲府 (山梨県)→清里(山梨県)→小諸(長野県)→松本(長野県)→乗鞍岳(長 野県・岐阜県、道路上での日本最高海抜地点約2,700m)→野麦峠(長野県・岐 阜県)→高山(岐阜県)→下呂(岐阜県)→名古屋(愛知県)→知多(愛知県) ~<フェリー>~渥美(愛知県)→浜松(静岡県)→静岡(静岡県)→御殿場 (静岡県)→自宅(横浜市)だった。

 そして、月日は流れ、大学一年生となり、サイクリング部や探検部に入るこ とはなく、なんとなく学生生活を送っていた夏、大学の友人であるN君(サイ クリング部で北欧、エジプト、中国と海外をチャリで走る旅人)が自転車で、 日本一周を成功させた。

 「俺にもできるだろうか・・・」それが、私の日本一周への決意だった。

 こうして、今まで行ったことのある最北端が新潟で、最西端が京都・奈良だ った私がチャリで日本一周をすることになった。

 <第2回へつづく・・・>

高2の夏、乗鞍高原にて(1995年8月)

高校時代の高山への旅の写真から(乗鞍高原、1995年8月)

 私にとって、「日本一周」は未知の世界であった。日数はどれだけかかり、 お金はどれくらい必要か、ルートをどう決めたら良いのか・・・など思い立っ たものの、まったく検討がつかなかった。ただ「自分にできないことはない!」 という自信に似た確信だけはあった。

 まず、日本一周を思い立った大学1年の冬に旅費をどう工面するか考えた。 その当時、アルバイトはしていたものの、人並みにも楽しい大学生活を送っ ていたためか生活費の出費は多く、貯金は十数万円ほどしかなかった。

   しかし、大学には2ヶ月近くの春休みがあり、旅費を捻出するため時給がい いアルバイトをすることになった。私がその春休みにしていたアルバイトとは、 完成前の新築マンションの内外装のクリーニングをするというもので、いわゆ るゼネコンの現場仕事という、一昔前でいう3K(キツイ、汚い、暗い)の部 類に入るアルバイトだった。もちろんその分、時給はいい訳で、月に20万円を 稼ぐことができた。

(その後、5、6種類のアルバイトを経験したが、このアルバイトが一番高時給 だった。ところで、1ヶ月で20万円ということは2ヶ月で40万円という計算だが、 その後夏の日本一周の旅までに20万円が生活費でなくなっていた・・・)

 また、運が良く私の大学に自己推薦で応募ができる奨学金制度があった。 本来、この奨学金は、社会的な学外活動を積極的にしている人が対象であった。 私はYMCAでボランティアリーダーをしていたので、これを自己推薦し、駄目で 元々で応募したら、なんとみごと審査が通り、30万円の奨学金をいただけるこ ととなった。しかし、特にYMCAでの活動は、お金がかからないものであったの で、いただいた奨学金を推薦した活動のためではなく、日本一周の旅の旅費に 当てた。これも、本来、奨学金は学費を出していただいた親に渡すべきもので あるが、親を説得し旅の資金に当てた。

 こうして、旅費は、50万円近く用意できた。

 次に、ルートと日程を心配した。
「大学生の特権は、『休みが多いこと』」と思っていたが、日本一周となると、 まるまる2ヶ月ある夏休みも短いものとなる。北は北海道、南は沖縄を2ヶ月で まわるスケジュールを組むには、1日100km以上走らなければならなかった。 「非常にタイトだ」、そう思ったのは、実際に日本地図を見ながら走るルート を考え、予定日を地図に書き込んでいる時だった。

 ただ、「予定はあくまでも未定」ということで、実際、その予定のルートと 日程にはこだわらなかった。「行けるところまで行く」、そんな考えしかなか った。そうこうしているうちに、はじめは夏の暑さを避けるため北海道へ、涼 しくなる8月後半から沖縄に向かう、自宅→北海道→沖縄→自宅の北周りのル ートに決めた。

 もう一つ気になることが自転車と旅の装備だった。
特に、車種にこだわりがなかったので、普段乗っているマウンテンバイク (MTB)をそのまま使うことにした。今思えば、そこら辺のディスカウントス トアーで売っていそうなもので、よく日本一周ができたと思うほどそんなたい そうなものではなかった。

 しかし、装備にはかなり悩んだ。できるだけ軽くしないと自転車が重くなる。 けれども、いろいろもって行きたい。そんな板ばさみに悩んだ。しかし、装備 選びには、自信があった。高校時代、山岳部であったため、キャンプ道具には それなりに精通していたし、中学時代からのチャリの旅での経験で必要なもの と不必要なもののある程度の検討はついていた。

 だが、絶対的な自信を持って装備の選択をしたのにもかかわらず、出発前に 重さを量ったら、30kg(もちろん自転車を除いてだが)だった。これには、び っくり。はっきりいって、装備すべて載せた自転車は、自転車ではない。 「原動機がない大型のバイク」だ。けれども、旅には手ぶらはありえないのだ からしかたがない。

 こうして楽しい日本一周の旅の準備をすすめ、地獄のような大学の試験を終 え、大学2年の夏、1998年7月25日の朝、頭を坊主にした私は、まだ夜が明けき らない横浜の自宅を出発した。

 <第3回へつづく・・・>

日本一周の旅、出発前の私とチャリ(横浜の自宅前、1998年7月25日)

日本一周の旅、出発前の私とチャリ(横浜の自宅前、1998年7月25日)

 2ヶ月間という長い旅の初日は、結構しんどいものであった。東京の都心に 出るまでは、順調であったが、皇居の桜田門で雨に降られた上、浅草あたりで 道に迷い、東北への道、国道6号線に出るまでにかなり時間をロスした。
 しかし、初日は、到着目標地点の水戸まで着かなかったものの、東京都、千 葉県を越え、家から121km離れた茨城県の石岡市で宿をとることとなった。宿 を取るといっても、基本的には「野宿」だ。石岡駅近くの公園でテントを広げ 夕食をとった。

 ところで、日本一周のチャリの旅のテーマは、「人との出会い」であった。 そんなことを意識しているているためか、初日にも関わらず、人に助けられた り、話したりすることがあった。土浦の近くでは、北海道によく自転車に行く 地元のおじさんから、ヤクルトやバナナをもらった。宿を取った石岡では、地 元に住む同い年の人からいろいろ旅の話をしてもらた。本当に旅には多くの出 会いがある。

 2日目は、福島県のいわき市を到着目標地とした。
 しかし、全身が痛い。思うように体は動いてくれない。筋肉痛というよりも 全身が凝ってしまっていた。その上、1日目に日焼けしたところが、火照って 痛みがある。2日目にして、日焼けで真っ黒であった。
 1日目の目標地だった水戸では偕楽園により、水戸の黄門様の像の前で、旅 の師匠として写真を共にした(でも、一説によると黄門様は、テレビのように 旅にでることはなかったらしいが・・・)。

 水戸を昼ごろ前に出て、日立市を過ぎ、太平洋に出た。海を見たのは、この 日がはじめてだったので、海を見た時、不思議とペダルを漕ぐ力が沸いて出て きた。
 結局、この日は、福島県に入ったものの目標のいわきには着かず、手前の湯 本温泉で宿を取った。この湯本は、地名の通り温泉の源泉がある所で、150円 で温泉に入ることができた。旅の後の温泉は、まさに天国。この日は、テント を張った公園にいた猫が人なつっこく困った(テントの中まで入ってきて、思 わず「お前の寝床じゃなくて俺の寝床だ!」と怒鳴ったが、もちろん通じなか った)が、温泉で疲れも取れぐっすり寝た。

 3日目は、仙台を目標にして、ペダルを漕いだ。
 しかし、自宅を出てから、すっきり晴れることなく、霧のような天気で悩ま されていた。雨が降ると目が痛いし、晴れると暑いし、ころころかわる天気に はお手上げだった。
 また、疲れがたまっていたのか、走っている最中に眠くなってきて、途中海 岸で昼寝した。

 昼寝で、すっきりしたもののやはり、3日目も目標の仙台には着かず、宮城 県の岩沼市で宿を取った。岩沼でテントが張れそうな場所を探し、日本三大稲 荷の1つ「竹駒神社」の駐車場を借りることにした。しかし、トイレがなく近 くの神社の参集殿という会館らしき所へいってみたところ、会館のおじさんに、 事情を話すと「会館の裏でテントを張ったほうがいいよ」と、雨のあたらない 所に案内してくれた。その上、会館のお風呂を貸していただいた。

 次の日、私は、会館のおじさんの声で起きた。「おにぎり作ったからもって 行け」と、おにぎりを2個もらった。これを朝飯で食べ、おじさんに感謝と出 発の挨拶をして、岩沼を出た。この日は、20km先の仙台駅まで行く事にした。

 横浜を、出発して4日目。横浜から400km離れた、杜の都仙台に着いた。しか し、どうして、この日は、仙台駅止まりかというと、実は、大学のテストが次 の日にあったから。なぜ、テスト前に出発してしまったのか反省しつつ、チャ リを仙台駅の地下駐輪場に置き、JRの「青春18切符」を使い、東京の大学へ向 かった。鈍行で、6時間かけ、東京の日野市にある大学の友人の家に向かった。

●1日目 7/25(土)、曇り時々雨のちはれ、走行距離121.9km
 自宅(横浜市保土ヶ谷区)→日本橋(東京都)→石岡駅(茨城県)
●2日目 7/26(日)、きり、走行距離126.3km
 石岡駅(茨城県)→偕楽園(茨城県水戸市)→日立(茨城県)→湯本駅(福島県)
●3日目 7/27(月)、きり、走行距離142.6km
 湯本駅(福島県)→双葉(福島県)→相馬(福島県)→竹駒神社(宮城県岩沼市)
●4日目 7/28(月)、はれ、走行距離22.1km
 竹駒神社(宮城県岩沼市)→仙台駅(宮城県)+++日野市(東京都)
  ⇒ここまでの、走行距離412.9km

<第4回へつづく・・・>

クリックすると拡大地図が出ます

7/25~7/28のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

チャリの旅で初めて見る海(茨城県高萩、1998年7月26日) テントまで入ってくるほど人なつっこいのら猫(福島県湯本、1998年7月26日)

”初太平洋”<左>と人なつっこい猫<右>(茨城県高萩、福島県湯本)

 前日、仙台駅にチャリを置き友人の家に着いた私は、ぐっすり寝た。しかし、 翌朝起きてテスト勉強する気はなく、そのまま友人と共に大学へ。
 テストは幸い簡単であった。でも、大学で会う友人には、出会うたびに「焼 けたね~」の一言。

 テストが終わって休む間もなく、大学の最寄駅から再び、青春18切符を使い、 チャリが置いてある仙台駅に向かった。上野駅からは、東北線の快速で北上し た。途中、黒磯駅で電車を乗り換え、仙台駅行きの鈍行電車に乗った。

 しかし、東京では晴れていた天気が急変し、雨が降り出した。そんな中、泉 崎という無人駅で雨が激しくなり、電車が止まった。しばらくして、「集中豪 雨のため運転を中止します」とのアナウンスが流れた。「こんなところで、止 めるな!」と叫びたかったが、こればっかりはどうしようもなかった。このあ と、無人駅で2時間電車は止まったままだった。

 雨が小雨になり、再び電車が動き出した時には、もう夜が更けていた。動き 出してしばらくして、またアナウンスが・・・。「この電車は福島駅止まりと します」これには、びっくり。「仙台駅に行かしてくれ~!」  しかし、そんな願いが通じたのか福島駅からはJRがタクシーを用意していた らしく、タクシーで仙台駅に向かった。タクシーで1時間半、高速道路を使っ ても80kmぐらいはある。もちろん、いままでこんな長くタクシーを乗ったこと がない。気になるタクシー代は、2万円を超えていたが、もちろんJRが払って くれた。
 そんなこんなで、仙台駅に着いたのは、深夜の3時を過ぎていた。

 仙台駅に付いたのが朝方であったので、チャリを置いている駐輪場は閉まっ ていた。その上、前日のアクシデントで熟睡できず、かなり眠くなった。駐輪 場が開くのが朝の6時。6時までどう時間を潰そうか悩んだが、結局、駅近くの ファミレスで朝食をとり、時間を潰した。

 6時になり、一目散に駐輪場に向かい、チャリに乗った。何か懐かしさを感 じた。駅を出て、まず「独眼流政宗」こと伊達政宗の銅像がある青葉城址公園 に向かった。伊達政宗の像は、馬に乗っていたが、私はチャリに乗って杜の都 の仙台のまちを見下ろした。
 仙台のまちをひと回りした後、この日の目標地を、国道4号線を北上しての 花巻までと決めていたが、なんとなく松島へ行ってみたくなり、気が付いた時 には、海岸沿いの道を走り始めていた。
 ほどなくして、松島に着いたが、天気も良くなかった影響で島が望めず、あ まり面白くなかった。

   国道4号線に戻ってから、雨がひどくなり、目標の花巻までを諦め、築館の 赤坂温泉を到着地とした。しかし、がんばって築館に着いたのだが、赤坂温泉 の位置を地元の人に聞くと、「もう、温泉はやってないよ」との答えが。雨で エネルギー奪われた上、衝撃の一言で、がっくりきた。仕方なく、残るエネル ギーを振り絞り、温泉があるという一関に向かった。

 一関に向かう途中、自転車に荷物を積んで走る青年を見かけた。どこまで行 くのかと尋ねたところ。「今日はこの辺で泊まろうかと考えていますが、お風 呂を探しているんですが・・・」と返事が返ってきた。一関にお風呂があると 伝え、せっかくだから「一緒に行きませんか?」と誘い、10kmほどの道をこの 青年と走った。
 2人で一関に着くとまちにあるスーパー銭湯のお風呂に入った。しかし、こ の青年はテントを持っていない上、雨で宿を探す気になれず、仕方なく私の狭 いテントをシェアーして一緒に寝ることになった。まちの中で公園を探せなか ったので、銭湯近くのガソリンスタンドの雨がしのげるところにテントを張っ た。

 翌日、彼とはすっかり仲良くなり、いろいろ自分のことを話し合うようにな った。
 なんでも、彼は、アメリカの大学に留学していて、夏休みで日本に戻って来 ていたそうだ。出身は、大阪で、兄貴と一緒に自転車で大阪から北海道へ旅を していたが、兄貴が名古屋あたりではぐれ、その後は一人で旅しているらしく、 数日前に兄貴と連絡が取れ、盛岡でまた合流するとのことだった。彼の事情を 聞いた上で、この日、私も目標を盛岡としていたので、今日も彼と一緒に盛岡 を目指すことになった。

 一関を出て、金色堂で有名な平泉の中尊寺に寄った。金色堂は、本当に金箔 で輝いていて、入場料800円を払った価値があった。中尊寺で、彼が兄貴と連 絡を取りたいとのことで、電話をかけていたが、状況を聞くと「兄貴がまた行 方不明や」と答えた。それで私が、「これからどうするんだ?」と聞くと、 「1人で北海道にいくわ」と返ったきた。彼が関西人だからいい加減なのか、 それとも何かの縁なのか分からないが、偶然であった彼と一緒に北海道に向か う運命になった。

 彼と北海道に向かうことになり、とりあえずこの日は、盛岡を目標にして走 っていると、途中、彼が女性2人と話していて止まっていた。「何か?」と聞 くと、「どこへ行くのですか?」と女性が聞いてきた。事情を説明すると「2 人の旅のことをラジオに今から紹介したいのですが、ラジオに出てくれません か?」と。「えっ、ラジオ?」、はっきり言って驚いた。もちろんラジオに出 るなんて生まれて初めてだ。

 この女性2人はどうやらアナンサーらしく、30分ほど打ち合わせをして、収 録をすることになった。収録といっても実は、生放送だったのだ。「智美と美 智子と明日もがんばって行こう!」との2人の台詞で生放送は始まった。その 後のやり取りは、緊張でよく覚えていないが、よくある街角リポートだ。スタ ジオの男性DJから、旅の予算を聞かれ、手持ちがあと17万円だった(正確には、 郵貯にもう10万円はあった)ので、「17万円です」と答えると、スタジオの男 性DJが「日本一周の旅、17万円なり!」と言ったことだけは印象に残る。たっ た5分間のラジオ出演だったが、貴重な体験だった。生放送だから、自分の声 がイヤーフォンから聞こえることが、変に感じた。

 2人のアナンサーと分かれる時、ラジオ局(ちなみに、このラジオ局は、IBC (岩手放送)ラジオ:関東圏のTBSラジオのローカル局でした)の記念ボール ペンをもらった。また、昨日から一緒に行動していた彼の名前が、ラジオ出演 の時に初めて、「マサ」だと知った。名前を気にしていなかったので、すっか り聞き忘れていたのだ。

 ラジオ出演のあと、盛岡まではあっと言う間に着き、例のごとく銭湯に入り、 汗を流し、予てからの願望であった、わんこそばを2人で食べに行った。「東 屋」というお店で、1食2,000円は高かったが、思い出のため涙をのんでわんこ そばに挑戦した。
 100杯を越えると賞状と手形をくれるらしく、それらがほしくなり、苦しみ ながらなんとか100杯を超え、115杯を食べた。(ちなみに、大人の男性で(嘘 っぽいが)平均50杯とのこと。)

 気持ち悪くなりながらも、近くの岩手公園でテントを張り、その日は寝た。 こうして、長い1日は終わった。

●5日目 7/29(火)、はれのち豪雨、走行距離0km
 日野市(東京都、友人宅)~大学(東京都)~豊田駅(東京都)+++
 福島駅(福島県)―仙台駅(宮城県)
●6日目 7/30(水)、くもりのち雨、走行距離113.3km
 仙台駅(宮城県)→松島(宮城県)→築館(宮城県)→一関(岩手県)
●7日目 7/31(金)、くもり時々雨、走行距離101.9km
 一関(岩手県)→平泉(岩手県)→北上(岩手県)→盛岡(岩手県)
  ⇒ここまでの、走行距離628.1km

<第5回へつづく・・・>

クリックすると拡大地図が出ます

7/29~7/31のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

伊達政宗像と私(宮城県仙台、青葉城址公園、1998年7月30日) IBCラジオのアナンサーお2人と(岩手県花巻周辺、1998年7月31日)

伊達正宗像<左>とIBCラジオのアナお2人<右>(宮城県仙台、岩手県花巻)

 岩手公園の芝生は寝心地よく、ぐっすり眠れた。朝起きて、マサが「家の母 ちゃんが今日仕事から実家に帰って来るので、兄ちゃんのことが分かる」と言 った。家に連絡を取るため、昼の1時過ぎまでは盛岡にいるということで、私 も1時過ぎまで盛岡にとどまることにした。
 時間があったので、ガタがきはじめていた自転車のブレーキシューを取り替 えるため、街中の自転車屋を探すことにした。しかし、なかなか自転車屋は見 つからず、30分歩いてやっと自転車屋を見つけブレーキシューを購入した。
 街をぶらぶらして公園に戻り、1時になってマサが実家に電話することにな った。しかし、相変わらず兄ちゃんとの連絡はつかないようだった。

 そんなマサの複雑な気持ちを乗せ、2時に岩手公園を出た。30kmほど上り気 味で、途中、山中の石川啄木記念館に寄った。記念館では、啄木の生い立ちを 知り、啄木が教員をしていた当時の学校が残っていたので、見学をした。昔の 校舎は、天井が結構低く、木の香りが漂っていた。

 記念館を出てからは、下り20kmの道のりを快適に走り、この日の目標地の金 田一温泉に着いた。金田一温泉は田舎の温泉街で、温泉に入ってから夕食をと るための店を探したが、近くには一軒の飲み屋しかなかった。飲み屋は、田舎 の居酒屋といった感じで、マサはカレー、私はチャーハンを頼んだ。味はまあ まあ。
 食べ終わった時に、隣の席にいたおっちゃんに声をかけられた。「どこから 来た?」という質問は分かったが、その後の会話は、かなり方言がすごくて聞 き取れなかった。おっちゃんとの会話は進み、旅のことを話すと、例のごとく ビールをご馳走になった。
 そんなこんなで、ビールを飲まされ、生ビールを中ジョッキ5杯飲み、すっ かりできあがっていた。話せば、このおっちゃん、地元建設会社の社長だった らしく、気前良くビールを奢ってもらった上に、1万円をいただいた。その後 は、店を変え近くのパブで2次会へ・・・。すっかり、マサは酔ってぐったり していた。おっちゃんにお礼をしつつ別れ、寝るためマサを介護し近くの公園 に向かった。

 翌朝、マサは相変わらず、グロッキー状態であった。酔いながら寝たところ は、どうやら公園ではなく、町営プールにある東屋だった。夜中、東屋に着い た時には、先客がすでに寝ていた。先客は、思わぬ客にすっかり目が覚めてし まったようで、マサをいっしょに介護してくれた。先客は、大学生で私よりも 1つ上の人だった。彼は、北海道から実家の京都に向かっているようで、北海 道の様子を尋ねると、ずっと霧雨だったと話してくれた。彼は、先をいそうで いるようで、9時ごろに別れた。
 この頃には、マサの気分もだいぶよくなってきたので、私たちも先を急いだ。 この日は、青森まで行こうと決めていた。しかし、天気は朝から雨で、しかも 肌寒い。この日は、夏にも関わらず、低温注意報が東北地方に出されていた。 道路の温度表示を見ると「20℃」と表示されていた。この日は、寒さと眠さで まったく先に進まない。
 途中、雨がひどくなりドライブインで昼食ついでに少し休むことにした。昼 寝もして、3時にドライブインを出た。青森の目標であったが、無理をしない で手前の野辺地を目標地とした。野辺地の陸奥湾温泉の一軒の宿を見つけ、こ の日は宿でゆっくりすることにした。温泉で冷えた体を温めて夕食を宿でとっ た。素泊まり4,000円で、ちょっと出費がつらかったが、夕食のカツ丼は、今 までの旅の料理で一番おいしかった。久しぶりの畳の部屋と布団でぐっすり寝 た。

 次の日、布団のおかげで、目覚めがよく疲れも取れた。朝食は、納豆定食を 食べたが、素朴だがやはり買って食べる弁当とは味が違い、栄養になる。ここ のところの雨で洗濯物がたまっていたが、女将さんが洗濯をしてくれて、乾燥 機で服をふかふかにしてくれた。宿の人にお礼を言って、10時に宿を出た。

 青森までは約40kmの道のりで、疲れがとれたのであっと言う間の2時間で青 森に着いた。旅の出発前に、青森の「ねぶたまつり」を見たいと思っていたが、 タイミングよく、「ねぶたまつり」の開催期間であった。まつりは夕方からな ので、街中をマサとぶらぶらすることにした。青森と言ったら「りんご」とい うことで、街の「りんご」専門店を見つけ、りんごやりんごアイスを堪能した。 その後も時間があったので、海で釣りをすることにした。近くの釣具屋で竿な どの道具を買い、1時間釣りをしたが、これがぜんぜん釣れない。つまらなく なり、4時半ごろ街に戻った。その時、リンゴ専門店の人に「まつりは『ハネ ト』になって踊らなければつまらないよ。」と言われたことを思い出した。 「ねぶたまつり」自体はじめて見るのだが、『ハネト』の存在を知らなかった。 『ハネト』の貸衣装をやっているお店があるといっていたので、良く分からな いがとりあえず、衣装を借りて『ハネト』でまつりに参加することにした。

 『ハネト』の衣装もばっちり決まり、はじまりだした祭りを見学することに した。祭りが始まると、太鼓やお囃子がねぶたの動きに合わせて聞こえてきた。 そんな、太鼓やお囃子に合わせて「らっせーら!らっせーら!」という声が聞 こえてくる。そう、『ハネト』は、この「らっせーら!らっせーら!」という 声に合わせて、独特のステップで跳ねるだ。元々、祭り好きな私は、すかっり 『ハネト』となり、1時間近くは跳ねていた。跳ね疲れ、最後にもう一度外か ら祭りを見てマサと街を出た。

 言うまでもなく青森は、本州の北端の街。次に向かうのは、北海道!本州を 出たことがない私にとっては未知の大陸。「ねぶたまつり」の余韻を味わいな がら、20:20発の函館行きのフェリーに乗り、青森を後にした。

●8日目 8/1(土)、くもり時々晴れ、走行距離48.0km
 盛岡(岩手県)→山中(岩手県)→一戸(岩手県)→金田一温泉(岩手県)
●9日目 8/2(日)、雨、走行距離82.2km
 金田一温泉(岩手県)→三戸(青森県)→十和田(青森県)→野辺地(青森県)
●10日目 8/3(月)、くもり時々雨、走行距離45.2km
 野辺地(青森県)→浅虫温泉(青森県)→青森(青森県)~函館(北海道)
  ⇒ここまでの、走行距離803.5km

<第6回へつづく・・・>

クリックすると拡大地図が出ます

8/1~8/3のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

石川啄木記念館の学校にて(岩手県山中、1998年8月1日) 青森「ねぶたまつり」で「ハネト」になる(青森県青森市、1998年8月3日)

石川啄木記念館の学校<左>と「ハネト」で跳ねる私<右>(岩手県山中、青森市)

 青森からフェリーに揺られ、日付は変わり夜も明けない2時20分に函館に着 いた。フェリーで少し寝たが、眠気にたまらずフェリーターミナルの待合室の 椅子で寝た。だが、固い椅子なのでもちろん寝付けない。

 函館の朝市に行くため、旅仲間のマサとともに4時半に起きて、フェリータ ーミナルをあとにした。朝市には、20分ほどで着き、待合室で見た雑誌に載っ ていた「きくや食堂」の巴丼を食べることにした。巴丼とは、ウニ、イクラ、 ホタテが3種類の丼でボリュームがあって1,300円という安さであった。「きく や食堂」は有名なお店らしく、有名人のサインが並ぶ。こんな贅沢な朝食は生 まれて初めてだった。

 朝食後は、朝市をぶらぶらして、夕張メロンやカニなどを試食。チャリを押 しているとお店の人は「がんばれよ!これ持っていけ!」といって、何でもく れる。
 朝食後の間食もひと段落し、近くのレンガ倉庫で眠いので仮眠を取った。し かし、すぐ近くでイベントがあったようで、マイク音で起こされた。
 結局、ぐっすり寝れず、起きてマサと函館のまちを観光した。オルゴールを 売っている明治館、八幡坂や大三坂、旧イギリス領事館やハリスト教会などの 名所をまわり、イカスミソフトクリームも食べた(イカスミの味はほとんどな かった)。函館山のロープウェイは、山頂がガスって見えなかったので、いい 景色は望めないと思い諦めた。

 函館のまちをだいたい観光して、この日の宿にする所を五稜郭のど真ん中の 公園にすることにした。五稜郭に向かう途中で、釣りに再チャレンジするため 釣りえさを買っておいた。五稜郭の公園に夕食前に着き、一度、公園の外で夕 飯を食べ、人気がなくなった夜にテントを張り、すぐ寝た。しかし、10時ごろ 高校生ぐらいの子どもが近くで花火をはじめ、騒がしくなり、なかなか寝付け なかった。

 翌朝、「いち、に、さん、しー」という声が目覚まし代わりだった。「何だ? 」と思い、外を見てみると、公園ではラジオ体操が始まっていた。おじいちゃ ん、おばあちゃんがたくさん、テントの前で体操をしている。寝る場所を間違 えたようだ。おじいちゃん、おばあちゃんを前にテントを片付ける。ちょっと 恥ずかしかった。

 7時半に五稜郭を出た。国道5号線を北上し、ほどなく大沼に入った。しかし、 どうもマサの足の調子がよくない。様子見で、コンビニで休むことにした。コ ンビニの目の前で、メロンを売っているおばちゃんが「どっから来た?」と声 を掛けてきた。おばちゃんと話すと、メロンはライダーの人が買って行くよう で、メロンのほかゆでもろこし、鮭の燻製などをいただいた上、エリマキの木 で作ったキーホルダーをいただいた。メロンがおいしかったので、岩手の金田 一温泉でお世話になったおっちゃんにお礼にメロンを送った。

 八雲で昼食を取り、3時には長万部に着いた。マサの足の調子も良くなかっ たので、今日は長万部で泊まることにした。寝るにはまだ早いので、余った時 間で釣りをすることになった。なんでも長万部は、カレイが釣れるところで有 名。そんなこともあり、釣り場に行くとすでにおっちゃん数人がカレイを釣っ ていた。釣りを先にしていたおっちゃんに釣り方のコツを教わり、釣りを始め た。
 まもなく、次から次へとおっちゃんはカレイを吊り上げるが、一方、俺たち は・・・。待つこと1時間。「来た!」という声がマサから聞こえた。第一号 のあたりは、マサだった。しかし私には、あたりは来ず。さらに待つこと2時 間、ついに私の竿にヒット。釣ったカレイはそんな大きくはなかったが、これ ほど釣りで感動した瞬間はなかった。

 結局、マサと私の1匹ずつのカレイ2匹しか釣れなかったが、釣り方のアドバ イスをしてくれたおっちゃんにカレイを4匹もらい、全部で6匹のカレイが夕食 の食材となった。おっちゃんにカレイはさばいてもらい、焼いてみることにし た。しかし、ガスのストーブではなかなか火が通らず、半生で食べてしまった。  北海道は釣りをすれば、素人でも新鮮な魚が釣れるのだから、本当にいいと ころだと感じた日であった。  翌日、マサの足の調子がやはりよくないので、これからチャリの旅をいっし ょにするかをマサと相談した。結果、これ以上私のペースを乱したくないとの マサが言い、室蘭でマサがフェリーで大阪に帰ることになった。
 やはり別れが惜しくなり、室蘭までは一緒に走ろうと話した。しかし、長万 部を出てから一向に、マサのスピードが出ない。しんどそうだった。私と旅の 経過日程が違い、マサは私よりも西の大阪から出発し、旅も長い。疲れがたま っていてもおかしくない。「先に行ってくれ!」と何度もマサが言うが、とて も先に行くことはできなかった。

 伊達を過ぎたあたりでついにマサの足が限界に来たようで、マサはまったく ペダルをこがなくなった。心配してマサに声をかけると「先に行ってくれ!登 別まで間に合わへんで!」。1週間旅を共にした仲間と別れるのはつらい。別 れるのはとてもつらいが、私にも日本一周という目標があったので、断腸の思 いで、先に行くことを選んだ。別れ際、マサに「がんばれよ!」と声をかける と、「応援しているぞ!」との返事が返ってきた。マサにいう仲間に恵まれて、 いい出会いが出来たと思った。

 マサと別れ、登別に着いたが、行きたかった登別温泉は一山登らなければい けなかった。しかし、雨での走りで体力はなく、隣町の虎杖浜で宿をとること にした。
 虎杖浜の銭湯で、70歳ぐらいのおじいちゃんに「焼けてるね~」と声をかけ られ、おじいちゃんと話をした。話してみるとこのおじいちゃん、20年前まで は、近くの原子力施設の代表だったと話してくれた。なんでも、四国と本州を つなぐ橋(瀬戸大橋?)のワイヤーを作ったそうだ。ワイヤーといっても300 トンもあるとのこと。おじいちゃんの子どもは、私と同じ大学の中央大学の法 学部にいたそうだが、7年も大学にいたので、しびれて北海道に連れ戻してき たと話していた。おじいちゃんは、私のようにチャレンジするような青年にあ こがれているようで、チャリの旅をしている私にえらく感動してくれた。とて もありがたい応援をもらった。

 この日、テントは雨のため銭湯の近くの公園で張った。

●11日目 8/4(火)、くもり、走行距離25.4km
 函館(北海道)→五稜郭(北海道函館市)
●12日目 8/5(水)、晴れ、走行距離115.5km
 五稜郭(北海道函館市)→大沼(北海道)→八雲(北海道)→長万部(北海道)
●13日目 8/6(木)、くもりのち雨、走行距離105.4km
 長万部(北海道)→室蘭(北海道)→登別(北海道)→虎杖浜(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1049.8km

<第7回へつづく・・・>

クリックすると拡大地図が出ます

8/4~8/6のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

五稜郭にてマサと(北海道函館、1998年8月4日) カレイを吊り上げる私(北海道長万部、1998年8月5日)

旅仲間マサと五稜郭で<左>、カレイを釣る私<右>(北海道函館市、長万部町)

 昨晩から降っていた雨も朝には晴れて、この日の朝、虎杖浜を7時に出た。
 虎杖浜から苫小牧までは平らな道が続いた。しかし、北海道の寒さか、それ ともこの日の朝に飲んだ牛乳があたったのか苫小牧で腹痛に見舞われた。近く のコンビニでトイレを借り休憩をしたらだいぶよくなり、再び走り始めた。苫 小牧からは、国道235号線に乗り換え、さらに東へ進んだ。

   鵡川を過ぎたあたりから少し丘が続き、やたらと馬の牧場が目に付くように なった。どこを見ても牧場、牧場・・・。馬も私を見て、かなりチャリが珍し いのか必ずこっちを向いてくれる。途中、競馬場もあったがあいにくこの日は やっていなかった。
 富川で、国道235号線を左に折れ、日高に向かう国道237号線へ。富川のスー パーで、久しぶりに自炊をしようと食材を買出したが、近くに水が出る公園が なかったため、10kmほど走り、水がありそうな小学校でカツ丼を作った。校庭 では、おじいちゃん、おばあちゃんがゲートボールをしていたが構わず、米を 炊き、カツをたまねぎや卵などでとじた。しかし、米の炊き方が失敗し、ご飯 が固かった。おかげで、消化不良で朝の腹痛がぶりかえした。

 腹痛をおして、この日の目的地の日高に向かった。だらだらとした登りだが、 雨が降り始め、寒い。
 夕方6時前にようやく日高に着いた。とにかくお風呂に入り、宿を道の駅と することにした。道の駅の横の銀行にテントを張ろうとした時、そこには先客 がすでにテントを張っていた。話すと、どうやら長崎大学のサイクリング部の 人で、九州から北海道へ来たようで、明日は十勝に向かうそうだ。自転車を見 るとさすがサイクリング部、チャリの装備が軽い。30kgの私の装備とは明らか に違う。彼も疲れているようだったので、この日は話はそこそこで早めに寝た。

 翌朝、起きてみると雲一つない青く澄んだ空が広がっていた。これまで一番 の快晴だった。
 朝食は、タマゴサンド。と言っても卵を茹で、マヨネーズ、塩、こしょうを あえ食パンに挟むだけ。長崎大の彼も起きて、自炊するとはすごいと言われた が、自炊は確かに面倒くさい。でも結構、料理を作るのは嫌いではないし、作 り方によっては安上がりだ。
 長崎大の彼は、7時半ごろ出発したが、私は少し遅れて8時ごろ道の駅を出た。

 日高から富良野までの道のりは結構きつかった。峠道なので200mは登った。 しかし、富良野までは、50、60kmだったので、風景を眺めながらゆっくり走っ た。  日高峠と金山峠を越え、南富良野に入ったところで、メロンを売っている農 家があった。休憩がてら寄ってみると、農家のおばちゃんが売り物のスイカや モロコシをくれた。おばちゃんと話をすると、北海道のメロンと言えば夕張メ ロンだが、富良野のメロンの方が実はおいしくて、そんなに高くないと話して くれた。おばちゃんに富良野のメロン(本当にうまかった)もご馳走になり、 12時ごろ再び走り始めた。

 1時間ほどで富良野の街中に着く。街中はかなり観光地化していた。昼飯に、 朝の玉子サンドの残りとおばちゃんにもらったモロコシを食べ、街中を観光し た。吉本良二さんの写真館やチーズ工房に寄り、富良野の名産ラベンダーを見 ようとファーム富田に向かった。しかし、ラベンダーはもう遅かったようで、 あまり咲いていなかった。代わってヒマワリが元気良く咲いているのを見て、 北海道も今が夏真っ盛りなんだと感じた。名物ラベンダーソフトクリーム(な んかサイダーっぽい味だった)を食べ、ラベンダーの香りで心を落ち着かせた。

 宿は中富良野駅近くの森林公園のキャンプ場にすることにした。キャンプ場 はすでに、ライダーの人たちでいっぱいだった。夕食はカレー。もちろん自炊。 前日、米の炊き方がうまくいかなかったので、今回は火力を弱めて炊いたらう まくいった。カレーもいままでで一番のできばえ。しかし、北海道の夜は寒い。

 次の日の朝、あまりの寒さのため何度か目が覚めたが、すっきり起きられず ウトウトと8時ぐらいまで寝ていた。寒いのは当たり前の話で防寒になる服も あまりなく、寝袋もかなり薄いものだから仕方がない。

 昨日の残りのカレーをチルドパックに入れ、温めて朝食にしようとした。け どうまくいかず、温まっていないカレーをしかたなく食べた。あまりゆっくり してはもったいないと思いテントをたたみ始めた時、隣のテントサイトの人 (ライダーで一見一昔のヤンキーっぽい感じの人)が「どっから来たのですか? 」と声を掛けてきた。話せば、仕事(建築関係)が半分クビ状態で、熱いから 北海道に来たとのこと。大阪から来たが、旅の予定を決めずに来たのようで、 お勧めの場所を尋ねられた。私がこの日の目的地としていた美瑛を勧めた。そ うすると彼も行くと言ってくれた。どうやら私が行き先を決めてしまったよう だ。

 ライダーの彼が出発したのを追うように、10時ごろキャンプ場を出た。富良 野のまちをゆっくり別れを惜しみながら、深山峠へ。その峠から美瑛の丘を見 渡せるとの話を聴いていたので、峠に着いてまず写真を撮ることにした。カメ ラを構えていたら、自転車に乗っていた女性から声をかけられた。話すと彼女 は公務員で、強引に休みを取り、北海道に来たそうだ。北海道は2回目で今回 はゆっくり自転車で回っているとのこと。彼女に昼食を誘われ、峠の「ウッテ ィーライフ」というカレー屋(でもあり宿屋でもあった)に入った。入ってみ るとログハウスで雰囲気がいい。黒カレーがお勧めとのことで早速頼んだ。カ レーの色は、本当に黒で、ウインナーが2つ付いていた。具は、溶けて汁状に なっていた。食べるとコクがあり上品な味だった。食べ終わる前に、この店の ご主人が話をしてくれた。なんでも、この店は雑誌などで載っているほどの有 名店で、宿には主人が面接をして合格した人しか泊めないというこだわりを持 っていた。

 店を出たあとは、自転車の彼女とも別れ、美瑛の丘めぐりに走った。丘を眺 めながら、まずは美馬牛小学校へ。とんがり屋根の洋風の建物で、小学校と言 う感じがしない。写真をしっかり撮り、次は拓真館に向かった。拓真館は、写 真家の前田真三さんの個人ギャラリーで、彼の写真が多く展示されている。彼 は美瑛の丘の写真を多く残しているので、これから美瑛の丘の写真を撮ろうと している私には大変良い見本となった。

 手本を見た後は実演ということで、早速、丘に向かった。まず、拓真館から 見える赤い屋根の小屋のそばまで行くことにした。このあたりは、砂利道で観 光客がまったくいない絶好のポイントだった。絶好のポイントで写真を撮り、 自分の目にも丘の色を焼き付けた。
 後は、雑誌を頼りに有名な丘に向かった。新栄の丘は、観光客が多くいい感 じがしなかったが、三愛の丘の方では、人があまりいなかったので眺めが良か った。マイルドセブンの丘は、一面の芝生でしばらく寝転がり、気持ちが良か った。北西の丘、ケンとメリーのポプラの日が落ちる前に着いた。夕日と丘の コントラストが妙に北海道の広さを感じさせてくれた。写真を撮るのもしばし 忘れ日が落ちるのを眺めていた。

 この日は、かしわ園というキャンプ場でテントを張った。

●14日目 8/7(金)、くもりのち雨、走行距離153.8km
 虎杖浜(北海道)→苫小牧(北海道)→富川(北海道)→日高(北海道)
●15日目 8/8(土)、晴れ時々くもり、走行距離86.7km
 日高(北海道)→占冠(北海道)→富良野(北海道)→中富良野(北海道)
●16日目 8/9(日)、晴れ時々くもり、走行距離53.1km
 中富良野(北海道)→上富良野(北海道)→美瑛(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1343.4km

<第8回へつづく・・・>

クリックすると拡大地図が出ます

8/7~8/9のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

ラベンダー畑から十勝岳を望む(北海道中富良野、1998年8月8日) 美瑛の丘にて(北海道美瑛、1998年8月9日)

ラベンダー畑からの十勝岳<左>、美瑛の丘<右>(北海道中富良野町、美瑛町)