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チャリの旅(アメリカ西部編)の最近のブログ記事

 大学2年の夏に、65日間約6,000kmに及ぶ日本一周の旅を終えた私は、いつも と変わらない大学生活を送っていた。
 しかし、チャリの旅に味を占めた私は、次の行き先をすでに日本からアメリ カと決めていた。なぜ、アメリカであったかというと、ただ英語が通じる国で、 他の言葉を勉強する必要がなかったからという単純な理由からであった。
 行き先をアメリカと決めたのは、日本一周をした翌年(つまり1999年)の正 月頃だったと思う。とりあえず、英語が通じるところということで、決めたが はっきりいって向こうのネイティブの人と会話ができるような自信はなかった ので、ラジオ放送の英会話を自習し始めた。

 そうこうしているうちに2月になり春休みになった。そんな中、ボランティ ア活動をしていたYMCAの職員が、アメリカの国立公園のツアーガイド研修に向 かうということを聴き付けた。なんでも、ユネスコの世界遺産に登録され、世 界で初めての国立公園となったイエローストーン国立公園でガイドの研修をす るということ。このとき初めて、アメリカの国立公園を知った。

 その彼女の話を聞いている内に、実際にイエローストーンやほかの国立公園 に行ってみたくなった。しかし、アメリカの国立公園の情報についてはほとん ど無知であったので、まずは「○○の歩き方」のアメリカの国立公園編を本屋 で買うことにした。本屋やインターネットで調べていくうちに、一段とアメリ カの国立公園への憧れが強くなっていった。
 イエローストーンなどのアメリカの国立公園は、独特の公園管理システムを 持っていて、特にレンジャーと呼ばれる公園職員の魅力はすばらしい。公園内 の動植物の生態系や地形、さらに歴史や文化を分かりやすく教えてくれるプロ グラムを公園内で提供してくれる。そんな、ことも調べていくうちにわかって きた。

 しかし、実際、海外旅行をしたことがない私にとって、アメリカの旅はかな りのチャレンジだった。まず、パスポートをとり、アメリカの地図を買い、自 転車で走るルートを決めたり、いろいろなことが何もかも初めてで、未知の世 界だった。
 アメリカの道路はどんなものか、道路の標識はどういうものか、泊まる場所 はあるのか、野宿はできるのか、1日どれくらい走れるのか、などまったく手 探りで、情報かき集め、調べた。

 結果、アメリカ西海岸でも北にある都市で、比較的安全なシアトルから入り、 そこから東へ向かい、ロッキー山脈にぶつかったら、南下し、アメリカを縦断 するように、ラスベガスまで自転車で走るというルートに決めた。
 ルートが決まり、早速、旅行代理店のH.○.S.でチケットを買った。しかし、 チケットのあまりの高さ(ラスベガスからの帰路が、ロサンゼルス経由しかな く、合計で約17万円)に面を食らったが、期間やルートを変えることはしたく はなかったので、なくなく妥協した。

 チケットをとってからは、とても時間が早く感じられた。7月に入り、大学 の夏休み前のテストやレポート課題の時期となり、旅の準備がままならないと きもあったが、なんとか、テストや課題を片付け、アメリカへの出発前日とな った。アメリカへの旅立つ前日は、日本一周の時とは、まったく違い、緊張も せず、夜はぐっすり眠れた。

 1999年7月27日、こうして、私はアメリカ西部の旅に向かう日を迎えたのだ った。


<第2回へつづく・・・>
 アメリカ西部への出発の日、1999年7月27日、朝7時半に起きた。
いつもと変わらない朝だった。今日、アメリカに行くという緊迫感がない。 何気なく、大きな荷物をザックで背負い、9時に家を出た。
これからの51日間どうのなるのだろうか・・・まったく予想ができない。

 自宅からいつも乗り慣れている路線バスに乗り、横浜まで。横浜からは、こ れまたバス(バスといってもYCAT発のリムジンバス)で成田に向かった。
成田には、ちょうど昼ごろ着いた。成田に着いてから、やっと緊張してきた。
ターミナルで昼食をとり、13時にチケット受け取ってから、15:55発の便を待 つことになった。成田は、国際空港なので、もちろん外国人もたくさんいる。
しかし、外国の人を見ると、これから日本を出ようとしているのにすでに海外 にいるような何か不思議な感覚になる。

 搭乗手続きを済ませ15:30に飛行機に乗りはじめたが、私の席は、もちろん 安いエコノミーだったのだが、何やらブッキングが発生したようで、ビジネス クラスの席になった。「ラッキー」と思い飛行機に乗り込んだが、どこがどう エコノミーと違うのかよく分からなかった。

 16:30ごろ飛行機は、成田を離陸した。隣の席には、アメリカ人の女の子が 座っていたが、英語を話すことにまだ慣れていなく緊張のため、軽い挨拶程度 で済ませてしまった。
 離陸後、2時間もしないぐらいで、夕食となり、夕食後、少しアルコールも 手伝い、眠りについた。

 夜が明け、次の日・・・と言いたいところだが、太平洋上の日付変更線をま たいでいるので、再び7月27日の朝を迎えた。1日が48時間になったようで何か 得した気分だが、まったく寝付くことができず朝を迎えていた。
 朝からボリューム満天の食事が出て大変だったが、無事に8:40、シアトル・ タコマ空港に着いた。着いて早々、入国審査があったが、サングラスにガムを 噛む、いかにもアメリカ人らしい人が担当の人となった。初海外で心配してい た、入国審査でのやりとりは特になく、すんなり終わった。

 荷物を受け取り、早速、シアトルの中心部に・・・と思ったが、中心部に向 かうバスに乗るため、手持ちのトラベラーズチェックを両替して、現金化する 必要があった。仕方なく、空港で両替を頼んだが、これが誤算で、かなりの割 合で手数料が引かれ、ほとんど現金のドル券は手元に戻らなかった。
(あとで、分かったのだが、売店なので、普通にトラベラーズチェックで買い 物が出来たので、何か買い、お釣りを現金でもらえばよかったのだ)
 要領が悪いながらも、ドル券を手にした私は、シアトルの中心部に向かうバ スに乗り、まず宿となるユースホステルを目指した。某ガイドブックを見なが ら、ユースに一番近いところでバスを降り、そこから歩きユースに着いた。ユ ースに泊まる手続きは、すんなり行き、荷物を置いてから、シアトルのまちを 歩くことにした。

 まずは、REIという、一時期日本にもお店があった、シアトルで一番大きい アウトドアのお店に向かった。今回、実は自転車を日本から持ってきていなか ったので、ほかの道具と合わせて、このREIで買う予定でいた。お店は、アメ リカでも5本の指にも入るほどの大きさを誇り、入口ではお店の吹き抜けを活 用した、ロッククライミングの練習用の岩がお客を迎える。
 一度、店内を見回した後、自転車をじっくり品定めして、K2(スキー板など 有名なメーカー)のMTB(マウンテンバイク)をサイドバッグや水筒などの道 具と合わせて買った。自転車は、タックスも含め、425ドル(当時のレートで 約5万円)とやや高め、だったが新品には変わりはなく、車体は見た目より軽 く、走りも軽い。

 買った早々、ユースまでの道のりを、少しシアトルのまちを見ながら、チャ リを走らせた。夕食に、マクドナルドのビックマックを食べ、初日ということ もあり、早めに布団に入った。
 しかし、夜中の2時ごろユースのスタッフの人に起された。なんでも、チャ リの起き場所が悪かったらしく、移動させろということだった。
 そんなこともあり、まったく寝付けず、旅の2日目を迎えた。

 旅の2日目は、チャリのテスト走行とアメリカの生活に馴染むため、1日シア トルの観光にあてた。シアトルは、今ではイチローなどが活躍する大リーグの マリナーズの本拠地で、日本人にも住みやすいまちとして有名だ。
 この年、ちょうど大魔神こと佐々木投手がマリナーズに移籍した年だったの で、野球観戦はしないまでも、野球場だけでも見ようと思い、セーフィコフィ ールドを覗いた。スタンドには入れなかったが、ちょうどアメフトの練習をし ていたようで、日本とはスタジアムの作りが違うなと感じた。
(実際に、シアトルではキングスドームというドーム球場を使っていたようだ が、屋外のスタジアムの人気が高く、ドームを潰してまでこのスタジアムを作 ったほど、アメリカ人の野球熱は高い)

 スタジアムを見た後は、パイオニアスクエアを見て、日本でも最近は珍しく なくなったスターバックスコーヒーのお店(シアトル発祥のカフェだからちゃ んとシアトルに一号店がある)で、ベーグルにアイスコーヒーのブランチをと る。
 食事の後は、港の方に行き、市場や面白い形のタワーを見て、中心部をほと んど見てまわり、ユースに戻った。

 夕食は、途中買ったパンで済ましたが、食後、ユースの共有スペースに行く と日本人の女性がいた。彼女から先に話しかけれた。なんでも、サンフランシ スコに住んでいるようで、シアトルから近い、オリンピック山に行こうとして いるようだった。アメリカについてからシアトルの空港でいた、観光案内所の あばさん以来、日本人二人目との会話となった。
 どれくらい、彼女と話したのか分からないが、話が落ち着いたところで、彼 女と別れ、挨拶をした。

 その後、しばらくその場でぼーとしていたら、アジア系の男の人に英語で話 しかけられた。話してみると、彼は韓国人でリーという学生で、カナダのバン クーバーに3ヶ月滞在したあと、自転車でシアトルに来たらしい。彼とは、初 めて英語での長い会話となった。初めは、なかなか彼の英語が聞き取れず、苦 労したが、話しているうちに慣れてきて、少しまともな会話が出来るようにな った。しかし、彼の英語はしっかりしていて、私もそうだが、日本人の学生よ りも韓国人の学生のほうが英語を話す力は、あるようだ。
 結局、彼との話で盛り上がり、この日、深夜の1時にベッドに入った。


●1日目(日本時間) 8/27、晴れ
 自宅(横浜)→成田→(機内泊)
●1日目(アメリカ西部時間)8/27、晴れ
 (機内泊)→シアトル・タコマ空港→シアトル市街
●2日目 8/28、晴れ
 シアトル市街観光


<第3回へつづく・・・>

REIのお店の中のクライミングウォール(シアトル市街、1999年7月27日) 新しく買ったチャリとユースホステル(シアトル市街、1999年7月27日)

REIのお店<左>とチャリをユースホステル前に<右>(シアトル市街)

シアトル港前の駅(シアトル市街、1999年7月28日) シアトルの市場(シアトル市街、1999年7月28日)

シアトル港前の駅<左>とシアトルの市場<右>(シアトル市街)

 前日、シアトルのユースホステルで韓国の青年と深夜まで話していたので、 翌日10時近くまで寝てしまった。私は起きて、少し慌てた感じで支度をして、 11時にユースホステルを出た。
 シアトルのまちに着いてから、3日目の朝、ついに西部の旅の出発となった。 しかし、この日は昨日までの天気とはうって変わって寒い上、小雨が降ってい た。私は、宿を出てから、一旦北上し、エベレットというまちからロッキー山 脈まで東に向かうコースをとった。

 シアトルのまちを離れ、初めて郊外の道路に出る。日本の道路と違い、路側 帯が広く、自転車が通れるスペースは広い。また、シアトルからある程度郊外 に行ったところでも、自転車専用道路があり、とても走りやすい。
 ただ、アメリカの道路にはいくつか種類があり、日本で言う高速道路にあた る「インターステイトハイウェイ」は、料金が取られない上、片側3車線程度 で道路が広いため、車は平気で100mph(約160km/h)でとばす。そのため、原 則自転車は走行禁止となっているようだ。また、日本の幹線国道にあたるのが、 「U.S.ハイウェイ」という道路。こちらは、車線が片側1,2車線で自転車も通 れる。そのほか、日本の一般国道や県道などにあたる「ステイトハイウェイ (州道)」がある。

 シアトルからは、「インターステイトハイウェイ」が北へ走っているのだが、 自転車は通ることが出来ないので、州道で北にあるエベレットのまちを目指し た。エベレットまでは、20~30マイル(約30km~45km)ぐらいだったので、2、 3時間で着くかと思ったが、大間違いで、坂が結構多く、曲がった道も多かっ た。さらに、道に迷ったりで、かなりアメリカの道に不安を感じた。

 どうにか地図を見ながら、夕方前にエベレットのまちに着いたので、早速、 宿を探すことにした。エベレットのまちは、シアトルに比べ、かなり小さかっ たので、ユースホステルは諦め、モーテルを探すことにした。しかし、初めて モーテルを探すことになり、要領が分からないので、道路の看板を頼りに、 「Vacacy」と出ているモーテルで出来るだけ雰囲気がいいところを選らんだが 一泊40ドルと結構いい値段だった。ここでもモーテルの人の英語がほとんど聞 き取れず、自分の英語のリスニング力のなさを痛感した。
 泊まったモーテルは、アメリカでは平均的な設備だった(ベットとシャワー・ バス、トイレ、テレビ、冷蔵庫付き)が、食事は出ないので夕食は外のスーパ ーでパンを買って食べた。
 しかし、この日は、初日ということもあり、夕食を食べてベットに横になっ たらウトウト眠ってしまった。目が覚めたら、夜の10時を回っていた。

 次の日、私は7:30にモーテルを出た。
 出発してからまず、エベレットのまちの近くにあるジャンボ機で有名なボー イング社の工場行くことにした。しかし、工場近くに着いた時に、見学時間が 9時と13時ということを知ったのだが、すでに9時をまわり、13時までは相当待 つことになるので、工場の見学は諦めた。

 工場見学を諦めたあとは、最初の難所とも言える峠越えことを心配した。 峠とは、シアトルなどのアメリカ西海岸から続くアパラチア山脈の峠で、ロッ キー山脈に入る前にどうしても越えなければいけないスチーブン峠というもの。
 実は、シアトルのまちからは、富士山の高さをゆうに凌ぐレーニアの山が近 く、またこのレーニアの山はアパラチア山脈に属する。

 エベレットのまちから今度は、U.S.ハイウェイ2号線を東に進み、川沿いの 道を走った。道路は次第に登りの様相を呈して、だんだんペダルも重くなって きた。また、自転車の後輪に荷物の重さがかかり、さらに進みにくくする。
 エベレットのまちから登り調子でのんびり進むと、峠の前にキャンプ場があ ることを知り、この日は無理をせず、このキャンプ場で泊まることにした。テ ントは今回の旅で日本から持参をしていたが、実際アメリカで、テントをどの ように張って泊まるのかまったく来て見なければ、分からなかった。

 この日もあまり無理はしなかったので、夕方前にキャンプ場着いた。このキ ャンプ場は、ワシントン州の管轄のものであり、受付で空きがあるか聴いてみ たところ、すでに予約でいっぱいのうようだったが、なんとか、ベンチがある 空きスペースにテントを張らしてくれた。
 しかし、この日も受付の人の英語が聞きとれずかなり苦労したが、夜になり、 空を見上げると、日本では到底見られないような星の天体ショーを楽しめた。
 私は夜空を眺め、疲れが吹き飛んだ気がした。


●3日目 7/29、くもり時々はれ、走行距離51.09mile
 Seattle(WA)→Everett(WA)
●4日目 7/30、くもりのちはれ、走行距離70.47mile
 Everett(WA)→Beckler River Campground(WA)
  ⇒ここまでの走行距離121.56mile


<第4回へつづく・・・>

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7/27~7/30のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


シアトル郊外から遠くのシアトルのビルを望む(シアトル郊外、1999年7月29日) エベレットのモーテルの様子(エベレット、1999年7月29日)

シアトル郊外の川<左>とエベレットのモーテル<右>(シアトル郊外、エベレット)

峠から流れる渓流(Beckler River、1999年7月30日) キャンプ場の様子(Beckler River Campground、1999年7月30日)

峠から流れる渓流<左>とキャンプ場の様子<右>(Beckler River)

 旅の最初の難関となるスチーブン峠近くのキャンプ場で夜を明かしたが、さ すがに山ということもあり、朝方かなり冷え込み、何度か目が覚めてしまった。 おかげですっかり寝坊をしてしまい、9時半にようやく起きて、10時半に出発 をした。
 この日は、すぐそこの峠を越えれば、後は下りで楽勝かと思っていたが、こ れがなかなクセモノだった。峠までの登り道は、天気がよく暑いく、ダラダラ とした登りが続き、なかなか思うようにチャリが進まない。地図と実際の道で は、大きく印象が違う。

 12時半をまわってようやく、スチーブン峠に着いた。峠でお店でのあれば、 昼食でもとろうかと思ったが、峠にはスキー場しかなくお店での食事は諦めた。 食事はとらずしばらく休んでいたら、そこへ車で峠に来た女の人が「昼食は?」 みたいなことを聞いてきて、バナナを一本くれた。ちょっとありがたかった。 アメリカで初のもらい物だった。
 いただいたバナナを食べ、さあ下りで楽しようと思ったが、登りもあり、案 外距離は伸びず、ちょっと大きなまちのリーベンワースの手前にあるレストラ ンで、昼食を兼ねた夕食をとった。

 この日はそこから、少し行ったキャンプ場に泊まった。キャンプ場は、ただ で泊まれたわりに広い。トイレや水道もあり、早速、涼を求め水浴びをした。 この日は、暑くすっかり日焼けをしてしまった。

 翌日、また寝坊した。やっぱり朝寒く、朝方何度も起きたせいだろう。
 身支度をして、9時半ごろキャンプ場をでた。この日は、前日よりもさらに 暑く感じた。リーベンワースに11時ごろに着いたが、コンロ用のガスを買った り、ちょっとまちを見たりしたら、昼食の時間になったので、スーパーでフラ ンスパンを買って食べた。
 日中、うだるような暑さで、チャリはことのほか前に進まない。腕と足がす っかり焼けて、痛い。

 こんな調子で、この日は走るのをほとんど諦め、休み半分でリンカーンロッ クのステイトパークのキャンプ場で泊まることにした。キャンプ場は、コロン ビア川沿いにあり、川をせき止めた少し大きな湖があり、泳げるようになって いた。暑かったので、川に入りたかったが、子どもがたくさん遊んでいたうえ、 ちょっと狭かったので、やめた。


スチーブン峠(1999年7月31日) リーベンワースの町並み(1999年8月1日)

スチーブン峠<左>とリーベンワースの町並み<右>(ワシントン州)

 夕食を買いに、キャンプ場近くのガソリンスタンドにあったスーパーに行っ た。買ったのは、マカロニ缶とジュースで、10ドル紙幣を渡し、お釣りを確認 したら5ドル足りないことに気が着いた。どうやら、店員は、私が5ドル紙幣 を渡したのと勘違いしていたようだった。もちろん、抗議をしたが、私の英語 が通じず、理解されなかった。こういうときの文句の言い方を覚えておくべき だった・・・。走行距離をはかるメーターも壊れ、本当に嫌な一日だった。

   翌朝、起きたのが6時半。久しぶりに、ぐっすり眠れ、朝早くに出発するこ とができた。フランスパンにピーナッツバターを塗り、朝食をとる。7時半に はキャンプ場を出た。
 キャンプ場からオロンドのまちまでは、順調に走れたが、オロンドからウォ ータービリーのまちまでの10マイルは、登り道だった。地図では小さな峠か と思えたがこれが大間違いで、10時ごろどうにか登りきり、ウォータービリ ーのまちに着いた。

 ウォータービリーは、あまり大きなまちではなかったので、スーパーでジュ ースと水を買い、すぐに出発した。峠を登ってきたのだから、ここから平らな 道が続くだろうと思ったが、またしても大間違い。小さな峠道の連続。さらに、 灼熱の暑さ。腕と足は真っ黒に焼け、死ぬかと思うくらいに痛い。
 さらに追い討ちをかけるように、タイヤの空気が抜け、炎天下1時間くらい 修理に時間を費やした。どうにか、タイヤに空気をいれ、再び走り始めたが、 暑すぎてまったく元気がない。しかも、長く感じる道。地獄の一日だった。

 そうこうして、次のちょっとしたまちのコーリーシティーに3時ごろどうに か着いたが、まちは少し寂れた感じで、泊まる場所があるかどうかかなり不安 になった。スーパーでジュースを買い、一気飲み。そのあと、レストランでハ ンバーガーを食べる。遅い昼食だ。食事のあと、運良くモーテルを見つけ、再 びスーパーで夕食と次の日の朝食を買った。
 この日は、ヘトヘトで食事もろくにできなかった。

●5日目 7/31、はれ、走行距離43.28mile
 Beckler River Campground(WA)→Stevens Pass(WA)→
 Tumw Ater Campground(WA)
●6日目 8/1、はれ、走行距離31.62mile
 Tumw Ater Campground(WA)→Leavenworth(WA)→
 Lincoln Rock Campground(WA)
●7日目 8/2、はれ、走行距離54.11mile
 Lincoln Rock Campground(WA)→Waterville(WA)→Coulee City(WA)
  ⇒ここまでの走行距離250.57mile


<第5回へつづく・・・>

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7/31~8/2のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


リーベンワース過ぎの渓流(1999年8月1日) キャンプ場近くの川(1999年8月1日)

渓流<左>とキャンプ場近くの川<右>(Wenatchee River、Lincoln Rock)

キャンプ場の様子(1999年8月1日) どこまでも続く道(1999年8月2日)

テントサイト<左>とどこまでも続く道<右>(Lincoln Rock、Coulee City)

 コーリーシティーのモーテルを朝7時に出ようとして、自転車を確認したら タイヤの空気がかなり抜けていた。
 どうにか空気を入れ直し走り出したが、しばらく走ったら不安は的中し、前 輪の空気がまったくなくなっていた。ここでしかたなく、チューブの交換とな った。30分かかって直した。
 しかし、この日も暑い。もう、嫌だ。そこで気を紛らわすため、ポケットラ ジオを使い、FMラジオを聴きながら走った。西部の陽気な音楽が聴こえてくる。 これで、幾分楽になった気がした。

 この日は、ワシントン州東部の大きなまち、スポケンまで行く予定だったが、 暑くてまったく進まない。
 3時ごろダベンポートに着いた。あまりの暑さにスーパーで水とジュースを 買い、ジュースを飲んでいたら、男の人と女の人に話しかけられた。彼らに、 この近くで安いモーテルがないかと尋ねると、男の人が、「家なら安いぜ」と 言った。ということで、彼の家まで案内してもらい、彼の庭にテントを張らし てもらった。
 彼の名前はティムさんで、私が水とジュースを買ったスーパーの社員だった。 彼の庭にテントを張って落ち着くと、「家に入って休め」と言われた。
 彼の家で結局、夕食にハンバーガーをご馳走してもらった。食後、「暑いか ら泳ぎに行かないか?」と誘われ、彼のトラックで、彼のガールフレンド(奥 さん?)と娘さんと彼の愛犬と共に、20分間のドライブとなった。「どこへ泳 ぎに行くのか?」と思ったら、見るからに冷たそうな澄んだ川だった。結局、 30分以上は川に浸かり、涼しんだ。

 川から家に帰ったあとも、ビデオ(ビデオタイトルは不明だが、アメリカの 映画にありがちな学園物。でも結構面白かった。)を見せてもらい、すっかり フレンドリーになった。
 この日は、アメリカ西部の一般的な家庭の暮らしぶりを覗かせてもらった気 がした。本当にティムさんに会えてよかった気がした。

 翌朝、私はティムさんに「朝はゆっくりしていったらいい」と言われたが、 結局、遅れ気味のペースが気になりゆっくりもできず、早く起き、身支度をし ていた。ティムさん達はまだ寝ていたようで、起すのも申し訳なく、また別れ が辛いというのもあり、玄関に感謝のメモとほんのお礼という意味で10ドル札 を残して、7時に出発した。
 人の家でゆっくり休んだこともあり、この日はかなり調子が良かった。地獄 だっただだっ広い西部の台地もスポケンで終わりとなった。スポケンからは、 少しカナダ国境近くを目指し、北東方向に走る。

 スポケンのまちには、10時ごろ着き、ジュースとパンを遅い朝食として食べ る。スポケンは、シアトル以降2番目に大きいまちだったが、特に見るべきも のがなかったので、食事後、自転車屋でチューブを買って、すぐに出発した。
 スポケンのまちでは車の数が多かったので、歩道を走っていたが、まちから 離れると、また広い側道を走ることになった。いくらか、アップダウンがあっ たが、とても心地よい走りができる道。

 夕方4時ごろニューポートのまちに着く。ニューポートのまちは、ワシント ン州とアイダホ州の州境のワシントン州側にあるまちで、ほんの隣にあるアイ ダホ州側の「Old Town」のまちと共に国内の観光地となっているようだった。 まちにあるキャンプ場を見つけ、パスタをチキンスープで食べた。しかし、鼻 の皮がめくれて痛かった。ここ3、4日でかなり焼けてしまった。

 翌朝、キャンプ場を6時半に出る。思ってみれば、この日が一番早起きをし 出発した日だった。
 朝食にピーナッツバターを塗ったパンを作っておき、走ること2時間半、サ ンドポイントのまちに着く。サンドポイントのまちで朝食のパンをかじり、再 び北東に走った。このあたりから峠があるのかと思ったが、すんなり30mileを 走り、ボーナーズフェリーのまちに着く。ここで、昼食をとるためスーパーに 寄り、いつものように、スポーツドリンクとパンとハム、さらに桃を2つ買っ た。桃は西部に来てから初めてだったが、とても甘くおいしかった。

 桃で元気をつけ、出発したが、すぐに急な登りになった。しかも、道が工事 していたところもあり、かなり疲れてしまった。モンタナ州に入る前に、かな り山を登ったので、途中、川に架かった橋の高さは100mぐらいで、これには思 わず足がすくんだ。
 アイダホ州の通過し、モンタナ州に入り、疲れが出てきたので、10mile行っ たところのキャンプ場でこの日は泊まることにした。キャンプ場には、食べ物 が売っていなかったので、持ち合わせのスパゲティー缶(面とソースが缶詰に なっている)を暖め食べ、早めに寝た。


●8日目 8/3、はれ、走行距離30mile(メーター故障のため推定距離)
 Coulee City(WA)→Davenport(WA)
●9日目 8/4、はれのちくもり、走行距離86.71mile
 Davenport(WA)→Spokane(WA)→Newport(WA)& Old Town(ID)
●10日目 8/5、はれ、走行距離91.21mile
 Newport(WA)& Old Town(ID)→Sandpoint(ID)→Bonners Ferry(ID)→
 Kootenai River Campground(MT)
  ⇒ここまでの走行距離458.49mile


<第6回へつづく・・・>

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8/3~8/5のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


ティムさんご家族と共に(ダベンポート、1999年8月3日) 川に向かうティムさんのトラックにて(ダベンポート、1999年8月3日)

ティムさんご家族と共に<左>、川に向かうトラックにて<右>(Davenport)

川での様子(Davenport、1999年8月3日) 水面に浮かぶ(Kootenai River、1999年8月5日)

川での様子<左>と水面に浮かぶ橋<右>(Davenport、Kootenai River)

 アイダホ州からモンタナ州に入ったところのキャンプ場をこの日は、7時半 ごろ出た。朝、キャンプ場近くで、自転車に乗った女性に会った。彼女は、グ レイシャー国立公園のローガン・パス(峠)について、すでに苦労して超えて きたスチーブン峠よりの楽だと言っていた。本当かどうか彼女が私と逆の方向 から来たので分からないが、彼女と話して少しは気が楽になった。飛ばしてカ リスペルまで行きたいところだが、カリスペルにはキャンプ場はないようで、 その手前のマックグレゴリーレイクのキャンプ場を目標とした。

 朝食は、「スニッカーズ」だけでは足りず、リビーの町で、パンとバナナを 買って食べた。10時を過ぎていたので、朝食と言うより昼食に近かった。リビ ーから先はほとんど何も家らしい家はなく、西部の田舎のしずかな風景が広が っていた。しかし、程なくして空は曇り始め、雨が降り出した。さわやかな雨 で日本の夏に降る雨のようにムシムシした感じはなかった。雨が止み、再び走 り出した。このあたりまで来ると標高も1,000mを越え始め、高原のような空気 に変わり始めた。
 3時ごろハーピースインに着き、夕食用のスパゲティーを買った。ここから すぐにマックグレゴリーレイクのキャンプ場に着くと思ったが、思ったより遠 く、さらに登りの道だった。

 終わりのほうで油断をし、ようやく4時半キャンプ場に着く。でも、どうや らキャンプ場でキャンプをしているのが私だけのようで、静か。でもあまりき れいではなく、蚊も多かった。

 翌朝、前の日と同じく7時半にキャンプ場を出た。
 カリスペルは、30mile先。空はすっきりしない。でも、サイクリングには、 いい曇り具合で、道も下り気味でスタート。そんなこともあり、目標時間より も早く、カリスペルの町に着いた。スーパーで、鶏肉と野菜のお弁当を買うが、 これがあまりおいしくない。
 遅い朝食の後は、晴れてきたが、ここから平地で向かい風があり、進みにく い。途中、グリーンエバーという町のスポーツ店で、靴下とスプーンセットを 買う。

 その後、ダラダラと30mile走り、2時ごろようやく、グレイシャー国立公園 に入る。公園に入ると結構、人がいた。まず、この日泊まるキャンプ場をアパ ガーのキャンプ場に決めた。まちがって、キャンプ場代を12ドル(自動車で泊 まる人の料金)払ってしまったが、どうやら自転車乗り(biker)は、1泊3ド ルでよかったらしく、パークレンジャーに言って、多く払った分を返してもら った。

 お金の精算をした後、自分のテントサイトに戻ると、隣には、アメリカ人ら しくない、自転車に乗ってきたような男性がいた。話してみると、カリフォル ニアに住んでいるロシア人で、アメリカが誇る石油メジャーの一角、エクソン 社に勤めている人だった。どうやら、長期の休みをとり、3ヶ月の旅をしてい るとのこと。
 彼とそんな話をしているともう一人男性が隣にやってきた。もう一人の彼が 持ってきたビールをご馳走になり、3人で話が盛り上がった。後から来た人は、 オランダ人で彼もまた、休みを使い長旅をしているようだった。彼らと共に、 夕方行なわれていた、パークレンジャーによるプログラム(アメリカの国立公 園では、観光シーズンになると毎日のようにパークレンジャーによる教育プロ グラムが行なわれていて、ガイドツアーや動物や地質などの自然解説や楽器演 奏などのショーが無料で体験できる)に参加し、グレイシャーの山々の成り立 ちを教えてもらった。

 その後、酔った勢いもあり、3人で(公園からほんの少し出た)3mile先にあ るプールバーに歩いて行った。バーでビールをまたご馳走になり、世界共通の ゲームであるビリヤードを3人でやった。勝負は、私の惨敗だったが、すっか り出来上がってしまい。時刻はすでに次の日になっていた。
 バー閉店間際、3人で再び、1時間以上かけ3mileの道をおぼつかない足で歩 いて帰った。月明かりしかない、薄暗い森の真ん中を貫く道を3人で、時々、 自分の旅の話をしながら・・・
 映画の「スタンド・バイ・ミー」の世界がこの時、私の中では広がっていた。

 翌朝、アルコールのせいか何度か目が覚めた。それでも8時ごろ起き、テン トを片付け、パンを食べ始めた。ここで、昨夜私と飲んでいた2人も目を覚ま し起きた。彼らは、食事をしないままテントを片付け始め、それぞれ今日の目 的地がばらばらだったので、10時前に別れの挨拶をして、キャンプ場を出た。

 私のこの日のルートは、自転車での走行が15mile程度で、あとはトレッキン グ(歩き)の予定にした。途中、レイク・マクドナルドで湖を見た。とてもき れいな湖だった。売店で、パンとハムを買い、この日泊まる、アバランチのキ ャンプ場に向かった。キャンプ場はすんなりとれ、昼食としてパン1つを食べ、 チャリをキャンプ場に置き、靴や装備を整え、レイク・アバランチへのトレイ ルに向かった。道は、自然の多い、川沿いのトレイルであったが、思いのほか 早く着くことができた。1時間ほどで、湖の見えるポイントへ。湖からの眺め はまるで絵葉書のようで、正面の氷河が頂きにある山々からいくつもの川が滝 のように流れていた。日本にはなかなか見られない風景だ。
 湖で15分ほど休憩をして、1時間ほどでキャンプ場に帰ってきた。この日は、 走行距離も短く、アップダウンもほとんどなく、散策程度でのんびりと過した が、次はいよいよいままでで最大の難関の峠越えだ。


●11日目 8/6、くもり時々雨のちはれ、走行距離79.37mile
 Kootenai River Campground(MT)→Libby(MT)→
 Mc Gregory Lake Campground(MT)
●12日目 8/7、くもりのちはれ、走行距離70.64mile
 Mc Gregory Lake Campground(MT)→Kalispell(MT)→
 Apgar Campground(MT)
●13日目 8/8、くもり、走行距離15.23mile
 Apgar Campground(MT)→Avalanche Creek Campground(MT)・・・
 Avalanche Lake(MT)・・・Avalanche Creek Campground(MT)
  ⇒ここまでの走行距離597.3mile


<第7回へつづく・・・>

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8/6~8/8のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


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グレイシャー国立公園内の地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


グレーシャー国立公園の入口の看板(Glacier N.P.、1999年8月7日) キャンプ場で知り合った2人と共に(Apgar Campground、1999年8月7日)

国立公園入口の看板<左>、キャンプ場で知り合った2人と<右>(Glacier N.P.)

かわいいレンジャーさんが熊の生態を説明(Apgar Campground、1999年8月7日) Avalanche Lakeからの美しい風景(Avalanche Lake、1999年8月8日)

かわいいレンジャーさん<左>とAvalanche Lakeからの風景<右>(Glacier N.P.)

 グレイシャー国立公園でも難所となるローガン・パスを越えるため、この日 は、朝の6時に起きた。前日につくった、スパゲティーを食パンにサンドした ものを4つ朝食として食べた。どうかと思ったが、味は悪くはなかった。

 朝食後、7時にキャンプ場を出る。1時間近くは、ダラダラした登りが続いた。 ザ・ループというヘアピンカーブの折り返し地点を過ぎると、道路の横が崖下 という道になった。一歩間違えれば、崖下に真逆さま。かなり怖い。でも眺め はよい。山々が一望できる。
 徐々に登っていき、10時ちょっと過ぎに峠に着いた。峠には、ここはスイス かと思うくらい木造のビジターセンターがあり、多くの人で賑わっていた。朝 食が早かったので、ここでパンを2つかじり、ビジターセンターに自転車を置 いて、トレイルヘッドに向かった。

 トレイルは、ヒドゥンレイクへのトレイルで雪渓が残る道を歩いた。途中、 山にいる羊、マウンテンゴートを見かけた。1時間ほどで、ヒドゥンレイクと いう湖の近くに着いた。湖面までは行かなかったが、後ろの山が近くに感じ迫 ってくる気がした。12時前にビジターセンターに戻り、一気に山を下る。
 一度、国立公園を出て、再び公園内に入り、公園の北西方向にあるメニーグ レイシャーのキャンプ場を目指した。向かい風が強く、なかなか前に進まなか ったが、夕方前の3時にキャンプ場に着いた。ハイカー/バイカー用のサイトを 見つけ、早速、シャワーでも浴びようかと思ったが、お金がかかるようだった ので、水道の水を浴びて済ました。

 さっぱりしたところで、テントサイトに戻ると、同じハイカー/バイカーサ イトに一人の男性がやってきた。挨拶をして話してみると、どうやら彼は、20 歳のドイツ人で、ヒッチハイクで旅をしているとのことだった。やたらと旅好 きのようで、よくアメリカのことを知っているようだった。
 彼と話しているうちに、更にキャンプサイトに、男性と女性の2人組みがや ってきた。彼らは、日本人とすぐ分かった。彼らも、私と同じく、自転車で南 を目指して旅をしているようだった。
 結局、この日はキャンプサイトで偶然、一緒になった3人と話し込み、夜は 更けていった。


朝日を浴びる山(The Loop、1999年8月9日) 峠までの道(The Loop、1999年8月9日)

朝日を浴びる山<左>と峠までの道<右>(Glacier N.P.)

ローガンパス(Logan Pass、1999年8月9日) 峠のビジターセンター(Logan Pass、1999年8月9日)

ローガンパス<左>と峠のビジターセンター<右>(Glacier N.P.)

ヒドゥンレイクへのトレイル(Hidden Like、1999年8月9日) マウンテンゴート(Hidden Like、1999年8月9日)

ヒドゥンレイクへのトレイル<左>とマウンテンゴート<右>(Glacier N.P.)

トレイルの雪渓(Hidden Like、1999年8月9日) セントマリーレイク(Saint Mary、1999年8月9日)

トレイルの雪渓<左>とセントマリーレイク(Glacier N.P.)



 翌日、私は6時半に起きた。朝食は、すっかりアメリカに来てからハマって しまったベーグルとアップルパイ、チキンスープ。
 この日は、レンジャーのガイドツアーでグリンネル・グレイシャーをトレッ キングすることにした。8時からツアーが始まるので、7時40分にキャンプ場を 出た。前日であったドイツ人の彼と一緒だった。

 ツアーは、私とドイツ人の彼(レオナルドさん)を含め、8人程の参加者で スタートした。レンジャーは女性で、ツアーは、時折彼女の話しを聴きながら、 ちょうどよいペースで進んだ。トレイルで咲いているハックルベリーは、クマ も大好物であること、更に木についているキズを、これはベアーサインでクマ が自らのテリトリーの目印につけているなどの面白い話しをしてくれた。
 2時間ほど歩いたあたりから、道がかなり険しくなり、崖の道になり、所々 雪がまだ残っていた。ゴールの氷河グリンネル・グレイシャーの手前のピクニ ック広場で昼食となった。サイトで出会った2人の日本人もこの日、グリンネ ル・グレイシャーを見に行くといっていたので、昼食の時に彼らに出会い、私 たちのツアーを追い抜いていった。
 昼食後、2時にグリンネル・グレイシャーに着く。氷河は、高さ約200m、幅 約1kmという大きさで広がっていた。氷河が解けた透き通った水をたたえた、 小さな湖があったが、水を触ってみるとすごく冷たい。手が凍るくらいだ。ツ アーはここで終わりになるので、ここで20分ほど休憩をとった。ドイツ人の彼 は、まだ、氷河にいる様子だったので、私は来た道を一人で下った。帰りは大 体2時間で下り、先を行っていた日本人の2人と同じ時間にキャンプ場に着いた。

 夕方からは、前日偶然であった4人で夕食を食べ、また旅の話しや自分たち の生活について話した。2人の日本人は、松本さんご夫婦で、カナダのジャス パーから自転車で南下して、メキシコまで行きたいと話していた。私の大学の サイクリング部(私はサイクリング部ではないが友人がサイクリング部だった) に知り合いがいるそうで、世界の狭さを知った。私がラスベガスに行くことを 話したら、松本さんの奥さんから、ラスベガスのホテルの情報をいただいた。
 この日も話が盛り上がり、夜は更けた。


●14日目 8/9、はれ、走行距離57.15mile
 Avalanche Creek Campground→Logan Pass・・・Hidden Like・・・
 Logan Pass→Saint Mary→Many Glacier Campground
●15日目 8/10、はれ、自転車走行なし
 Many Glacier Campground・・・Grinnell Glacier・・・
 Many Glacier Campground
  ⇒ここまでの走行距離654.4mile


<第8回へつづく・・・>

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8/9~8/10のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


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グレイシャー国立公園内の地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


女性のレンジャーさん(Grinnell Glacier、1999年8月10日) グリンネルグレイシャーへのトレイルその1(Grinnell Glacier、1999年8月10日)

女性のレンジャー<左>とグリンネルグレイシャーへのトレイル1<右>(Glacier N.P.)

グリンネルグレイシャーへのトレイルその2(Grinnell Glacier、1999年8月10日) グリンネルグレイシャー(Grinnell Glacier、1999年8月10日)

グリンネルグレイシャーへのトレイル2<左>とグリンネルグレイシャー<右>(Glacier N.P.)

キャンプサイトで出会った4人(Many Glacier Campground、1999年8月10日) Many Glacier Campgroundからの風景(Many Glacier Campground、1999年8月10日)

キャンプサイトで出会った4人<左>とMany Glacier Campgroundからの風景<右>(Glacier N.P.)